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【サンフランシスコでの訓練の回想録】
回想録1 :人生最高の師匠
回想録2 :天網恢恢疎にして漏らさず
回想録3 :師の名は
回想録4 :別れ
回想録5 :番外編
人生最高の師匠
あれは私が師母のもとに通い始めて何ヶ月が経過して、入門を認められた頃だった。
あの頃は、自分の治療院を一人でこなしていて患者の治療が終わった後、自分でカクテルを作っては、一杯の酒が楽しみになっていた頃で有った。
師母の所で三時間半の練習の後、帰宅して、いっぱいの酒が、妙に、美味しく、チュウチュウと飲んで、“氣功と酒は合わない”との忠告も何のその、練習に行く度に、「帰ってからの一杯がうまいんだぜー。」 と皆に、自慢していたのでした。
師母が私に、基本の基本から少しずつ教え始めて、六ヶ月目くらいであったろうか、ジャンピングが始まった。
私のジャンピングは、初めから低い姿勢で始まったので、恐ろしいほどの筋肉痛が待っているとは思いもしていなかった。
その頃既に、毎日通っていたので、今日ジャンプして、筋肉痛が治らないうちに、また次の日のジャンプが待っているという具合であった。
一年ほど、ジャンプした後に、足がどんなだろうと、正座を試みたが、大腿四頭筋がパンパンに張っていて、何遍正座をしてみても出きることは無かった。
師母の両肩を思い切って押して行っても、フワっと真綿を押すような感覚で、何遍押しても、自分の力が抜けてしまう。
先輩の肩を押せば、ものすごい抵抗があって、力と力の勝負になってしまう。
何遍考えても、先輩と何遍話し合っても、謎は解けなかった。
私への師母の警戒感が少しずつ解けてきたのはこの頃であったろうか。
ますますこの氣功の魅力に取り憑かれた私は、次の日の練習が待ち遠しくてたまらなく、一日の全ての時間を、この氣功の練習に費やすようになって行った。
既に練習を始めて、何年も経つ先輩を追い抜くには、毎日行くしか無いと決めた私は全ての物を売り払い、自分の人生の再構築の基本として、この氣功をとことん追求して、修めてみたい、触らないで人体をコントロールして、鍼灸治療の基本である氣の本質、本体、正体がなんであるのか、探らずして私の人生を終える訳にはいかないと、半ば意地にもなっていたようである。
そして、私の体に変化が起きてきた。
朝起きた時と夜寝る前に、一時間ずつ、瞑想をしていたが、瞑想が、身体に心地良く、身体に良い影響を与えているのがわかっ てきた。
練習中のある日、立禅の最中、急に私の身体が、大きくなり始め、ついには道場一杯に体が大きくなり頭や手が天井と壁に当たってしまい、ベビー用の小さい部屋に閉じ込められたような感覚になった。
信用できる先輩に聞いてみれば、「That' right. You are doing fine. Keep doing at it.」 と言う。
この言葉で、すごく安心して、今やっている事は間違いでは無い、別に氣が狂ったわけでは無いとして、また次の練習に励むのであった。
そんなある日、師母がデモンストレーションをすると言う。
その日、皆が準備して、私も一員として加わり、デモを端の方から見ていた。
皆を飛ばし終わった時、聴衆の中の一人が、急に飛び出してきて「俺にやって見ろ、やれるものなら、やって見ろ」と叫んでいる。
ふと見ると普通サイズのアメリカ人の倍はあろうかと思うような、熊のような巨人であった。
対して師母は私の肩迄のサイズである。
見れば、極端に異様な光景であった。
何か師母にあったら、大変なことになる。
その時の師母は八十歳を超えていたと思う。
私は、そいつの後ろにそっと回り、何かしようとしたら、後ろから一撃を加えようと準備していた。
師母はあまり得意でない英語で「who you!」と叫んだのであった。
その時の師母の態度が、女性でありながら、その巨人を睨みつけたそいつにも劣らない、圧倒的な氣迫であった。
どこの八十歳の老齢者にそんなことができようか。
男の武術家であっても、無理であろう。
結局何事もなくことは収まった。
後でわかったことであるが、そいつの正体は、合氣道を習って、あちこちで挑戦しては、相手を破りいい氣になっていると言う札付きの武術オタクであった。
この氣功の深遠な精神性を目の当たりに経験した私には、こんな男にはどんな武術であっても教えてはいけない、よくてボクシングやレスリングなど“格闘”の世界で生きて行けば良いのにと。
武術の奥に潜む精神性などアメリカ人にはわかりはしない。
その頃、私はアメリカのその精神性の低さに辟易していたので、余計に、その時の虚しさが、尾を引いたのである。
そんなことがあって、余計に師母との練習に熱が入って行った。
その頃には、私に親切に振る舞いながら、教えることは何もないのに、全く逆のことを教えに来る人間もおり、そんな姑息な人間は師母に教わることを一つもできず、師母が呆れて、「ミッツ、お前やって見ろ」と、私がやるといっぺんに出来てしまう。
大先輩もそんな時はかたなしで、コソコソと隠れてしまう。
師母は、ことこの氣功の訓練には人一倍真剣な方であった。
我々にはスパルタで教え、技に関しては、出来ていなければ、罵り、長い間その道場生には厳しく厳しく叱るのであった。
私にとっては、逆に、人生最高の師匠を見つけたと言う想いから、心地よかった。
私は叱られても、どこ吹く風で受け流していたが、他の何人かは大の大人でも涙を流しているものもいた。
そんな厳しい練習に耐えながらも、師母に冗談を言えるような私になって行った。
回想録2へつづく。
天網恢恢疎にして漏らさず
あれは私が師母から通氣をいただいて一週間ほど経ってからであったろうか。
通氣の後一週間ほど自宅で休んでろと言われて、ある日道場へ行ってみると、一人の日本人がいた。
訳を聞いてみると、この氣功について本を出版するために日本から来てると言う。
そして、なぜか私への態度がきつい。
よく話を聞くうち、私がその男の悪口を師母に言ったので師母と Dr.尤老師 の写真がもらえなかったと言う。
ずっと年上の私を「太田君」と呼び、私はその男を「…さん」と呼んだ。
そう言えば、一つ、思い当たることがあった。
師母の娘さんがある日、雑誌のコピーを持ってきて「これは日本語で書いてあるので、わからない。翻訳して欲しい。そして、 お前の感想を聞かせて欲しい。」と言うので、よく読んでみると、あれほど絶対の秘密保持を誓わされている通氣のことが書いてあった。
この男は以前、練習に来ていたと言うので、週に何回来て、どれほど長く練習しましたかと聞けば、週一回ほど来て、程なく辞 めてしまったと言う。
秘密であるはずの通氣について、詳しく書いてあったので、道場の誰かにこの男が聞き回っていたに違いないと思い調べてみると、一人の太極拳を教えていた中国人の男から通氣について詳しく聞いていたことを突き止めた。
翻訳した後、感想を聞かれた私は、「通氣は誰にもその内容を言ってはいけないはずなのに、この日本人の男が練習もろくすっぽせず、しかも通氣にもなっていない輩が通氣のことを書く資格はないのでは?」と私が正論と思えることを述べた事があった 。
今おもえば、この男が師母に手紙でも書いて、本を書くから写真を提供して欲しいとでも言ったのであろう。
そして、私は師母から、この男が来たら、やっつけて追い払ってしまえ!と言う密命を受けていた。
理由はどうであれ、日本人同士が海外にまで来て、いがみ合う必要は無いでしょうとこの男に言って、この男は車を持っていなかったので、私の車に乗せて、師母といつも行く中華飯店に連れて行き、ランチをご馳走したのであった。
今思えば、この男に関しては、私も人が良すぎたなと苦笑する。
後になって、日本で道場を開いた時に、この男が書いた本を私の道場生の一人が持って来たので読んだ時、私へ の誹謗中傷に満ちた内容で、あまりにバカバカしくなって、捨ててしまった。
師母と一回写真を撮っただけで、何ヶ月も何年も訓練して通氣にでもなったと言うのだろうか。
そんな輩がもう一人いるのも私は知っている。
日本人はアメリカに住んでいないから嘘の話をしてもバレ無いとでも思っているのだろうか。
そんな嘘つき小僧が武術氣功の大先生と言う。
習ってもいないものをとことん訓練し、新境地を開いたと言う。
そもそも通氣になるほど訓練した、通氣になったとでも言うのだろうか。
太極拳でも格闘技でも、死ぬほど、死ぬまでやれば良いでは無いか。
私にしてみれば、私がしたように、同じ訓練を一年でも、いや、一ヶ月でもやってみるが良い。一週間も持たないだろう。
嘘はいつかバレる!
いつか暴かれる!
そんな砂上の楼閣の団体は、内側から崩れる!
事実、崩れたでは無いか。
天網恢恢疎にして漏らさずだ。
回想録3に続く
師の名は
私が通氣を頂いて、何年か経ち、師母と私も別れが近づいて来ているのを感じていた。
相も変わらず、道場では師母が私を前に呼び、こう来たらこうなる、ああ来たら、こうなると皆に見せてその実、私は師母から個人教授を、毎日受けていたのです。
この頃になると、師母の方から、いつも「お前は日本に帰るだろう。日本でこの氣功を教える時、見せる時、誰に、お前は習った と言うんだ。いろいろな奴がこの氣功を私から習っておきながら、自分で作ったと言う輩が多い。さあ言え、誰に習ったと言うんだ。」
私は、あまりに突然、そんな当たり前の話をなんで又、わざわざと思いながら、答えた。
「もちろん、欧陽敏師母です。」
このことの意味が、何年か後に、なぜ師母がこう言う話を私に言ったのかよく分かった。
恥のない人間は、私欲と名誉欲に駆られ、自分が習ってもいないのに、習った、習ったと言う。
挙句の果てに、自分が大先生にしっかり収ま ってしまう嘘つき自称武術家のなんと多いこと。
それこそたった一枚の写真を後生大事に習った証拠として、金科玉条の如く掲げている馬鹿者もいる。
私は、毎日の訓練に夢中で、自分からお願いして師母との写真を写してもらったことは一度も無い。
現存する師母と私のツーショット写真は、全て友人や師母の生徒さんからいただいたものである。
回想録4につづく。
この後、回想録番外編があります。ご期待ください。
別れ
師母との別れの際に、私は、師母から、純金の指輪と師母の若い頃の写真を頂いていた。
その時までに、私は、師母にとって特別な存在であったらしく、自分の訓練は私とならできると言って、毎日毎日、私を三十分も投げてはジャンプさせていたものである。
その頃の私の大腿四頭筋は異常に大きくなり、上半身には筋肉はほとんどついていない。
所謂、上虚下実になり、武術家としては、理想の身体になっていた。
歩けば一歩一歩の足は道路を突き抜け、氣が道路の下にずぶっと入って行くのを感じるようになっていた。
不思議な感覚であった。
目を閉じれば、直ぐ瞑想状態になり、明るい所が苦手になり、暗い照明の所がありがたかった。
瞑想時の感覚が、氣持ち良く、ずっとこのままでいたい、この時間が何ものにも代え難い、とてもとても貴重な時間で、お金では買えない感覚と身体であった。
去年、日本に帰国してからも、私の精神と身体は変化し続け、現在の私の氣は更に重く、遠く、目の神は人を射抜くような勢いで、新しい境地で、幹部道場生に訓練を授けている。
毎回の訓練は楽しく、真剣で、次の練習日が待ち遠しくて仕方がない。
師母はいつも言っていた。
「この世で一番大事なものは何かわかるか?」
私はふざけて「お金でしょ、師母」。
真面目な師母は、「お前は分かってない、longevityだ。」
「私を見ろ、百を超えても、お前ら若 いやつをポンポン投げてるではないか。
元氣で長生きが一番いい、だからこの氣功が大事なのだ。
この氣功を続けると元氣で長生きする。
だから、お前もこの氣功を続けて、元氣で長生きするんだ。」
との師母の言葉が耳に響いている。
師母の言葉を引き継ぎ、この氣功を百歳倶楽部と名づけて、私も百歳を超えて生きながらえて、若い人たちをポンポン投げたいと願っている。
そして、もし、私の後継者と言う話が出るなら、この四名の幹部道場生こそ、嘘のない、私の望む後継者になる。
彼らとの信頼 、絆を大事にしたいからだ。
師母と私がそうであったように。
回想録番外編につづく。
苦行僧
私が三年間の苦行僧のような修行訓練がピークに達した時くらいに、私に対する他の道場生達の、嫉妬をベースにした嫌がらせと、そして追いつかれてしまった焦り、追い抜かれると思う競争心は彼らを、見るからに馬鹿げている言葉や態度になって、私を襲い始めた。
アメリカ人でBという者がいた。
別に私が彼に対して突っかかる氣持ちも何もないのに、他の年配の中国人に、私が例のウソ八百アドバイスを受けていた時に、急に割り込んで来て、私がしていることは全部間違っているのだと言う。
そいつには全く取り合わず、トムと言う例の中国人と会話を続けていた。
このトムが、他の中国人の大男をけしかけて、私と戦わせようとしていた。
回想録1に出て来たもう一人の嫌味な中国人の女と一緒になって、私に恥をかかせるのとあわよくば怪我でもして、辞めさせられればと考えていたかもしれない。
ある日、大男の中国人と押し合いをしていた所、相撲のような力相撲の押し合いになり、私は彼の肩までしかないので私の方が劣勢になって来た。
トムはここぞとばかりに「いいぞ、やってしまえ」と彼をけしかける。
私は、我慢できるギリギリの所まで、耐えて彼が最大に力を私にかけたその瞬間、私の肩にかかっていた全体重を両腕で後ろ斜め方向にパッと交わした所、この男は空中に浮いてしまい、椅子の上に落下して、椅子はバラバラになってしまった。
またある時は、私の両肩をグイグイ押して今にも私の体が崩れそうになった時も、例のあの両人がここぞとばかりにけしかけて「ホラ、ホラー」とますます押してくるが、右の足が前に大きく出てしまい、私には足払いのチャンスであった。体重が右足にかかり、私の左足の横に置いてあったそいつの左足をサッと足払いを掛けた瞬間、ステーンと大きな音を立てて床に倒れていた。
またもや両人はスーッと消えていなくなる。
師母はこんな出来事を椅子に座ったままじーっと見ているだけであった。
こんなことがあった後に、私は前に呼ばれて、技の解説の時、いつも投げ飛ばされているのであった。
強い、強い氣で飛ばされるのであった。
そして、一つひとつ、その技を自分のものにして行った。
嫉妬
あれは私の訓練がピークに達し自他共にすごく高いレベルになった頃だった。
またある日、例のアメリカ人のBが、私がいつものようにハードなジャンプをしていると、急に師母の隣に座り込み、私の目線でお互いに顔と顔を突き合わせる形になった。
明らかに私への嫌がらせと訓練への妨害である。
怒り心頭に発した私は、相手を罵る知っているだけの英語の言葉を並べて、外に連れ出した。
なぜこんな馬鹿げたことをするのかと聞けば、言ってる意味がわからない、何をそんなに怒ってるんだ、としらばくれる。
一発殴ってやろうかと思っていたが、こんなに姑息な奴を殴っても、弁護士を雇って法外な請求をしてくるキチガイのアメリカ人相手に法廷沙汰になるのは外国人である私にはぶがわるい。
思い直してこういうことをする理由をついに此奴から引き出した一言が、“jealousy”と言う。
そうかこんなキチガイがこの氣功を訓練すると、こんなトチ狂ってしまうのだなあと考えさせられた事件ではあった。
これ以降、私はこいつをクレージーBと呼び、決して側にも寄り付かせなければ、こちらから挨拶をすることもなくなった。
こんなことがあっても、又、どこ吹く風と、師母とのさらにハードな訓練は続いた。
仏教の世界では、“嫉妬”というものは僧侶であっても無くなることはないと言うから、こんな俗人では、どんなに瞑想しても精神的に向上することはない。
こんな事があっても余程、嫉妬心が強いのか、また難癖をつけられる私であった。
師母との別れ
師母との別れの近づいていたが、相も変わらず師と私の高レベルの訓練は続いていた。
その頃の私の氣功武術家としての体はできあがっており、下半身はどっしりと重く、逆に上半身はかるく、爽やかで、私の体重を支える下腿は強く、誰が挑戦してきても撃退できる力と氣迫はいつもあり目を閉じれば瞑想状態になる。
師母はこれからは座禅が重要だ毎日やれと言われたが、すでに何年も座禅は朝夜一時間づつ、すでに行っていた。
瞑想は氣持ちが良く、心身に心地よかった。
日本行きの切符も既に購入し、明日出発という日が最後の訓練の日、師母との別れの日はきた。
道場生と私のジャンピングも終わったので" 明日日本へ帰ります。師母」と言うと
「そうか、行ってこい。そしてたくさん道場生を持つんだオーケー?」
と簡単に云い、二階の自宅へ引き上げてしまった。
物足りなく感じつつ瞑想用の毛布と汗でびっしょり濡れたシャツをバッグに突っ込み玄関の鉄製のドアを開けて表の歩道に出て車の方に歩き始めた瞬間、後ろの方から
「ミッツ、ミッツ、My student!」
と言いながら泣いている。
私はたまらず歩道にぬかづいてこの武術特有の拝師の礼で叩頭をし、号泣をした。
そして、翌日アメリカを去った。
小虎とチーター
師母は我々道場生を「小虎」シャオフゥと呼んでいたが、私だけは、いつの間にか、「チーター」ラオフゥジャイと呼ぶようになっていた。
この氣功の特色は、師母に氣を出しながら、師母に近づいたり、拳で、氣で師母を打とうとしたり、目で睨みつけて、氣と氣の勝負をすることだ。
私はジャンプが始まると、体勢を整えて氣を全身に充満させてから、ネコ科の動物のように背骨を丸め足の運びもソーッと獲物に近づくような仕草を取り、いざここという時に全速で走って師母に打ちかかるが、師母のバリアーにかかると、力が抜ける、倒れる、飛ばされる、あるいは、投げられてしまう。
他の道場生はそのあとに、次の体勢を整えて又次に打ちかかる時間が極端に遅い。
それを見ていた私はグズグズしている間に師母との氣のコネクトが途切れてしまうことに気づき、受身を取った瞬間、パッと次の攻撃の体勢を整えることが重要と考えて、初めてジャンプを始めた時からそのようにしていた。
いつも、いつも、「不好、不好」といっていたので、どうしたら「好」と言うのだろうと、帰宅後はここが悪かった、あそこが良く無かったと一日中、考えて、出した結論がそう言う結論であった。
そして私は、チーターと呼ばれるようになった。
早い体の転換、足のスピード、柔らかい背骨が重要であった。
小虎、チーターと動物になぞらえて弟子を呼ぶ、中国の伝統武術文化に、私は日本にはない独特の風格を感じていた。
師母の具合が悪いとの連絡を受けた私は、日本の道場を切り上げ、アメリカに戻り、2度目の結婚をした。
師母に妻を紹介すると飛び上がるように喜び、「明日から夫婦二人で来い。一緒に練習するんだ」と言う。
私達は翌日から道場に通った。
そして、又あのアメリカ人のB が現れ、「なぜ日本でうまくやってたおまえがここにもどってこなくちゃならないんだ。」といつもの嫌がらせを試みる。
私はまた前に出されて、以前と同じようにジャンプを再開させられた。
ある日、私が先に着いてジャンプを始めていると、後から来た妻が、「1ブロック先でもドッスーンという音が聞こえていたよ!」と嬉しがるので、得意げにますます重さ深さを加えてジャンプすれば、師母は、「 your 氣回来(チフェィライ)」と満面の笑みを作り喜ぶ。
それ以来、私の妻も訓練を、本格的にスタートした。
私の指導と師母からの教えを受け、どんどん上達して行く。
妻は本格的に師母と訓練した最初で最後の日本の女性となっていた。
ある日、ワインで有名なNapaに連れて行って写真を写した時、現像した写真を見て二人で見てビックリした。
妻の二の腕がノースリーブから出ている筋肉が異常に太くなっていた。
そして夏の日に照らされた大腿四頭筋も異常に大きくなっていた。
又ある日、サンフランシスコの警察官が道場に現れた。
私のジャンプと氣合が大きすぎて隣人が警察に連絡したらしい。
中国人の人口が多いサンフランシスコの警察は太極拳に理解があり、「太極拳の練習をしています。」といったら「 Yea, I know Taichi is a Peaceful Martial Arts.」と言って帰ってしまった。
妻はそんな光景を見てただ驚くばかりであった。
そんな妻も一度だけ、師母に怒鳴られたことがあった。
どんな理由だったか、もう忘れてしまったが、私にしてみればなんでもないことだが帰宅して、泣いている。
師母は何をしても師匠だから、と慰めたが初めての経験は、きついことだ。
私がそうであったように。
そんな師母も既に亡くなり、私は日本の道場の再生、復帰できることを毎日願い、準備をした。
そして、去年(2015年)の2月に日本に帰国した。
あの師母はもういない。
中国で生まれた類稀なこの氣功は、中国からアメリカに渡り、そして日本で、今現在太田氣功道場の指導員たちに毎週重い、重い、氣の負荷をかけられてその伝承は続けられている。
師母が、私にそうしたように。
Dr.尤彭熙老師から欧陽敏師母に継承された氣功武術、そして養生功を
正式に受け継いでいるのは、私 太田光信だけです。
他には誰もいません。
騙されぬようにご注意を!
道場哲学
武術、武道と言えばどんなイメージが浮かぶであろうか?
まず十中八九、戦う相手を想定した戦闘法、スポーツや運動と答えるであろう。
○○大会で相手を打ち負かし、優勝、一位になる願望で試合する。
本人一人のみが勝つには他の選手は全部負けなければ、トップには立てない。
そんな時は相手を思いやる余裕などはあり得ないし、相手の事などは気にかけて居られない。
こんな余裕のない考え方では、共存、共栄共生などという心は育たない。
我々の修行体系には、試合もなく、倒すべく相手もいない。
唯一、敵がいるとすれば、それは、自分自身の中にある、傲慢、怠惰、相手の事を思わない競争心など、長年生きるうちに育てたコンプレックスなどの歪んだ心や考え方だ。
倒す相手がある限り、武術武道でゴザイと名乗る以上、相手の事を思いやる心は育たない、殺伐とした心の中のエネルギーが、負の連鎖を呼び、哀れな結末となる事は当然の理だ。
武術武道に携わる者の末路は、哀しいものに終ると思われる。
そして、ロバは馬の環境で育てても馬にはならず、スズメをタカに育てようとしてもタカにならないのと同じことで、生まれつき臆病な者は武道家にならず、臆病で裏切る者はどんな世界でも同じ事を繰り返すでしょう。
自分の欠陥を隠すために日本人の手の届かない神仏の権威を隠れ蓑にしてしまう者もいる。
武術武道の高圧的なイメージでは足りないくらいに自分の欠陥が大きいからだろうか。
なんとも問題のある世界ではある。
ある知り合った武道高段者は、高段位の指導者とされながら、後輩には無理難題を押し付け自分の利益、都合のために後輩を利用する。
またある武道指導者は、私が恵まれた環境でやっていると、嫉妬するや否や、それらを見苦しく奪う。
そしてまたある武術家は自己の贅沢利権の為に師匠を裏切り、紳士的で従順な道場生を裏切って平気のヘッチャラだ。
彼らは武術武道を何のために習得したのであろうか。
どう考えても解らない。
疑問ばかりが残る。
私がこれまで見聞した結果である。
我々の最終目的は健康長寿だ。
この最終目的に辿り着くまでの修練、修行体系が武術の基礎訓練だ。
しかも修行の中身の大方、九割までは瞑想で、残りは筋力トレーニングだ。
長年修行して、結果として、武術家の技術と身体が出来上がり、健康長寿を手に入れる。
こういうシステムなので、相手と自分のどちらが強いかということで争う事はない。
いわゆる格闘の世界ではない、格闘や争いのない武術と言える。
武術家としての技術ができる頃には、武術家の究極の身体、上虚下実が出来上がる。
そこまで到達すると、彼我一体の境地を体感する事となる。
上虚下実も彼我一体も武術武道の到達する極意、最高到達点だ。
日本には、さまざまな武術武道があるが、我々が提唱する突きも蹴りも無い、この新しい武術のコンセプトを現代の日本人に紹介したいと思う。
このコンセプトは日本人が持つべき、新しい哲学、武術体系となるのではないかと考える。
この氣功武術は始めるのに、年齢性別は問わない。
七十、八十の高齢者が修練をスタートしても、基本的には立って、座って瞑想することだ。
あとはケガのない足腰の筋力トレーニングだ。
相手をケガさせることも自分がケガすることもない。
上虚下実、彼我一体で、競争する相手もいないので、絶対平和の世界なのだ。
日本人の武術的歴史と縄文時代以来の日本人の精神文化を精査するとき、この境地は辿り着くべくして至った境地で、これからの日本人の生き方にも影響するものと考える。
私の場合、自分の身体が幼少の頃より、ひ弱で病気ばかりしていたので、心身トータルに強く鍛え上げたいと願って武術武道を習いたくてたまらなかったが、医者から体育や運動を禁じられていたので習うことは叶わなかった。
ヤット武道を習う事が出来るようになった時は嬉しくて嬉しく、たまらなかった。
何年か経った後、強健な身体が出来上がり、病気も一切、しなくなった。
精神的にも忍耐力と何にも挫けない心も出来上がっていた。
私のこれまでの人生で何回もの逆境に陥った時も、別に慌てることもなく、絶体絶命と思われる時も難なく抜け出した時にも、それ以前よりも、ずっと上で格段に良い状態になっていた。
越えられない逆境はないと確信できる自分自身を築き上げられた。
そして人と自分の関係も利益の関係ではなく、
心と情の繋がりで成り立つものだということも確信できた。
これが、我々の道場の哲学であり、共存共栄、共生もこの経験から生まれたものである。
跳躍功
私の修行時代の跳躍功の回数を数えてみた。
私は師母が他界される時まで、二十五年程、修練を重ねたわけであるが、日本に三年程、大阪に道場を開いていたので、低く見積もって十年間の修行とした。
入門した時に、既に、五人程の先輩道場生がいたので、道場到着後すぐにその五人の先輩の両肩を、相撲のテッポウのように力一杯、押してはジャンプすることが日課であった。
然る後に、師母との真剣なジャンプとなる。
五人に対し、一人百回づつ、力と力の押し相撲で五百回、師母と真剣に三十回、一日二回練習にいっていたので、一日1060回、一週間で7420回、一ヶ月で29680回、一年で356160回、十年で、3561600回。
凡そ三百六十万回となる。
この数を多いというか、少ないというか、私には、わからない。
十年間、毎日、日曜日もなく、祝日も、誕生日も、クリスマスもない修行であった。
一回の練習時間は、三時間半、立禅、座禅、それぞれ、一時間も含まれている。
このジャンプの繰り返しで、私の左膝は壊れてしまい、一時期、完全に歩けなくなってしまった。
私の家内が、長年のジャンプのせいで膝の血流が悪くなって冷えているのでは、と言うので、近所の山中の温泉に二年間毎週末に通って温めて、ついに完治したが、そののち、再び、ジャンプを始めて、また、悪くなってしまった。
今では、杖なしでは歩けない程である。
腿一本ダメにしてしまったが、後悔はしていない。
今現在、毎晩、皆が寝静まった頃に、起き出して、リハビリの真っ最中である。
身体はボロボロになってはいるが、逆に、精神は、氣は、さらに重く、さらに強く、目の神(シェン)は遠くの者を射抜く勢いで、次の段階に、レベルアップしている状態である。
肉体が削がれた分、氣や精神は、さらに研ぎ澄まされて行くようであると認識出来たので、後悔は無い。
そして、このハンディキャップを背負いながら、どこまで氣を拡大していけるのだろうという興味で一杯だ。
幹部道場生や一般道場生達との氣の交流、ジャンプが楽しみでしょうがない。
七十近くなって何にでも挑戦したいという意欲がフツフツと湧いて来て、最近では、勇気と力が体の中から湧いてくる。
何とも不思議な状態だ。
覚えておいてもらいたい、Dr.尤老師と師母が、新天地を求めて、香港経由でサンフランシスコまで来られたのは七、八十台の時だ。
それに比べれば、私などは、はなたれ小僧だ。
これからが第二の人生、私の本当の、事業の始まりだ。
大いに意気軒昂の毎日だ。
この氣功を日本の文化の一つにする、新しい日本の武術の概念と体系を世に問いかけを始める時なのだ。
瞑想と食と正体を深めて、全エネルギーをこの事にかける時なのだ。
共存、共栄、共生を合言葉に強く前進して行く所存だ。
弔辞
師母と私の妻が亡くなり、日本に帰国して一年半が過ぎて、今、初めての日本でのクリスマスを迎えて、自分の周りがザワザワして冷たい風が吹いてクリスマスの飾りとネオンを見ながら、昔の回想が頭の中に巡り始めて、一番目に頭に浮かんだ事は師母が亡くなった夏の日のことだった。
師母が亡くなった知らせを聞いて、師母の葬式の用意した弔辞は、他の道場生が勝手に
それぞれスピーチを始めてしまい、私はその弔辞を読みそびれてしまった。
私の師母への感謝の言葉である。
今でもその内容はハッキリ覚えている。
内容は以下の通りである。
師母、私は、この氣功について何の予備知識もなく、おそるおそる訓練を始めた時は私が何をやっても不好、不好(プーハオ、プーハオ) と口癖のように言っていましたね。
おまえは何年武術をやったか?と聞かれて、二十年しました、と言ったら、二十年?!ハ!おまえの脚は弱いと言われて、私のプライドはズタボロになりました。
訓練を始めて何年か経って、ヤットその意味が分かり、本当の、ホンモノの武術の意味となぜ脚が弱いと指摘されたのか理解出来たのでした。
この尤氏長寿養生功を決して武術と言わないかも理解出来たのでした。
人生をフルに生き切る為の手段として意拳の基礎訓練があるのだということを師母は身をもって我々に教えてくれたのでした。
本来ならば日本人には教えることのできない武術文化芸術を私には特別に教えてくれたのでした。
今の私が在るのは師母のお陰です。
師母のキツイ訓練から逃げ出そうと思ったことは一度や二度ではありません。
私は師母にお会い出来て、そして、この世界に一つ、たぐい稀なこの氣功を習えたことを感謝して誇りに思います。
こんなことは現代の社会において、非常に稀で、貴重な体験でした。
師母は師匠であり母です。
私は、私の実の母とはあまり馴染むことは出来ませんでしたが、師母とは自然に冗談も言える程に心が通じていました。
そんな意味で、師母は私の実の母より私の母としての存在でした。
生まれてきた限りは強く、より強く生きておまえの人生を生き切るんだとの教えを授けて頂いた師母は、私の本当の真の母でした。
いつまでも、いつまでも、こんな師母が私は大好きであった。
そしてその師母を私は強く強く印象が胸に残って今も思い出すのである。
武術家としての矜持
私には忘れられない師母の事がある。
それは師母が八十歳を優に超えていた時のことであった。
私がコスタリカのジャングル観光を終えてサンフランシスコに戻ってまた普通に訓練に戻ったその日、「お前は何処に行ってたんだ?」との問いに「コスタリカにジャングル観光をしてました、でも二日目にスリにあって大変な目に遭いました。」と言えば、「それでお前はそのスリをどうしたんだ。」と語気をつよめてまた問うので「バスを待ってた時後ろから押して来た時はもうポケットに手が入ってました。
私にすぐ気付かれるほどマヌケなスリでしたが、振り向きざま、力一杯顔の真ん中を叩いてやりました。」と言えば、すぐ一言「好、ハオ」と師母は言ったので、私の氣分はスーッとして、師母の不正や悪に対しては断固として許さない、武術家としての心と矜持に私は感銘を受けたのであった。
これ以降、私は師母の男のような性格と武術家としての伎倆は勿論、武術家としての気構え、人柄をますます尊敬してまた一日も欠かさず修練に励むのであった。
私が日本人以外の外国人を殴ったのはこれが初めてではない。
師母自身、昔、青島(チンタオ)で日本軍の兵隊が我が物顔で町中を歩いていたので癪に障って、何人かの兵隊を投げ飛ばしたと言った時があった。
この兵隊達は若い中国人の女性が中国武術の達人とは夢にも思わなかっただろう。
ドクター尤と共にこんな逸話は事欠かない。
師母の口からこんな武勇伝を聞くのは私の大いな楽しみであった。
またこんなことも言っていた。
日本軍は手を出さない限り何もしないが、中国の共産党は全て奪っていく。家のカーペットまで引っぺがして持っていってしまった。日本軍の方がまだマシだった、と。
日本軍の横暴の話が出る時は他の道場生の目が私に対してキツくなる。
こんな話を聞く時は、私もつらくなって、少なくとも私だけはアジアの同胞に対してはこんな横暴なマネは絶対にしないで東洋の友人としようと心に誓うのであった。
私だけはそんな事はすまい、させまいと思ったものである。
そんな訳で私には中国人の友人が世界中にいる。
師母の笑い話
笑って新しいTermを迎えてもらいたい。
とっておきのエピソードがたくさんある。
私の一押しのモノは以下の話になっている。
今でも思い出すと、突然、ニヤニヤして大笑いをしてしまう。
道場が二つあってサンフランシスコのご自宅と南の方に車で一時間程行ったある街の公共施設であった。
午前中はサンフランシスコ、夜はそっちの街であった。
私が練習場に到着すると師母がバーガーキングのダブルサイズのハンバーガーを両手に持ちパクついている。
それを見て、常日頃から自分は仏教徒で肉、ビーフは食べないんだ。とおっしゃっていたので、私が「師母、師母が今食べてるのはビーフ、肉ですよ」と言えば、私を叱りつけるように"Nooo!! This is Hamberger!!!" と言った。
私も含めてそこにいた全員が転げるように大笑いをしたのであった。
私が思った事は、この二つであった。
「迫力を持って言えば、肉も野菜になって食べられる。」
「百歳を超えて生きれば何を言っても通る。」
練習時にたまにこの話をすると必ず受けるので、ときどき道場生を笑わせている。
第ニはサンフランシスコに遠くからハーレーデイビッドソンの大型オートバイで通っていた者がいた。
ある日、そいつが茶目っ気を出して「師母、昼メシは、オートバイで行きましょう」と言ったら、"OK,Let's go" と言ったのには私もビックリした。
そのとても大きい大型オートバイの後ろにヘルメットを被りサッサと乗ってしまった。
百歳を超えて後ろであったにせよ、大型オートバイに乗った女性は師母が世界初ではないかと思う。
氣功を真剣に続けるとこんな風にユーモアと挑戦する心が育ち、怖れがなくなる。
私も百歳超えて水泳競技で世界一の新記録を作りたいとの夢を持っている。
もっとも世界一の高齢になれば、誰もそんな歳まで生きてないので、何をしても世界一になってしまうが、、、。
第三、師母が股関節が悪くなり、歩けなくなり、私がおぶって階段を降りたところに等身大の鏡があった。
鏡を見た時何処かで見た事があるような、、、すぐ思い出した。
映画のスターウオーズの ヨーダだった。
「尤氏空勁」の成立には尤彭熙夫人の欧陽敏師母も大きく関わっている点から
我々、宝寿会としてはお二人が「共同創始者」という認識を持っています。
欧陽敏師母は、尤彭熙師父から弟子として一方的に学んだというより、
修行者として共に切磋琢磨した関係であり、尤氏気功法の最高峰の技ともいえる
「尤氏空勁」が成立した時期もご夫妻が40代半ばであると言われているからです。
又、ご夫婦が出会った時には、欧陽敏師母は既に楊式太極拳のかなりの使い手で
ありました。(楊式太極拳中興の祖と言われる楊澄甫の弟子)
欧陽敏師母は、王向済老師の正式な拝師弟子ではありませんが、上述した様に
尤彭熙師父と一緒に王老師から直接の指導を受けていますので、意拳においては兄妹弟子の様な関係性と言えます。